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聖餐会でのお話 モルモン書 [モルモン書]

今日は久々に聖餐会でお話をしました。
テーマはワードの年間テーマであるモルモン書。
日曜学校の教師としての証などありますか?ということでモルモン書を研究するということで話してみました。
この責任に召されてどの位経つのかなと思って調べたらなんとΣ(゚д゚;)12年くらいしてました。
え、と私も驚くばかり・・・
もうそんなに経ったけ??

お話はリアホナの2011年10月のD・トッド・クリストファーソン長老のお話を元に

モルモン書は私たちの宗教の要石
モルモン書は私たちの時代のために書かれたものである
モルモン書は私たちを神に近づける

この3つが私たちが生涯モルモン書を学ぶ理由だと述べています。

モルモン書を読むときに聖文を自分に当てはめて、見つけたことをどのように応用したら良いかを見出そうとすることが大切ですね

モルモン書には力があって私たちに御霊をもたらし、御霊は啓示をもたらします。
読むときに深く考え祈りメモを取りつつ思索と瞑想にふけりながら読むとよいみたいです。

そしてモルモン書は宝であり改心の道具です

私ももっとメモを取りながら、その時に感じたことも書きつづっていこうかなと思いました。
うん、聖典日記とでも名付けようか・・・
タグ:モルモン書
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また頑張ろう!! 教義と聖約76章 [教義と聖約]

前にサイトでレッスンの要約をアップしてましたが、続かなかったので
今度はこちらにしてみます。
続けられるよう簡単に不定期にですけど頑張ります。
ほかの責任で出られなかったり来れれなかった方の少しでも助けになればと思います。

今日の日曜学校は教義と聖約20課、栄光の王国を学びました
私たちの来世の行くすえですね、

では、質問です

私たちの死んだあとに受け継ぐ王国はイエスに対する私たちの証によってどのように決められるでしょうか?

教義と聖約にはこのようにあります。
日の光栄・・・彼らは信仰によって勝利を得、御父が・・・・約束の聖なる御霊により結び固められているものである(76:51-53)
月の光栄・・・イエスの証に雄々しくない者(76:79)
星の光栄・・・キリストの福音を受け入れず、イエスの証も受け入れなかった者(76:82)

イエスの証に雄々しい人が日の光栄に行くことができるのですね。
イエスの証に雄々しいとはどういうことでしょうか?

それは単に信じることや知ることだけでなく行う者とならなければならないとあります。
従順、確信、そして自分自身が義にかなった生活を送ること、それが雄々しいということであると、ブルース・R・マッコンキー長老は言われています。


では、イエスの証に雄々しくあるとはどういう意味だろうか。

それは、勇ましく大胆であるということであり、世との戦いに力と精力と
能力をすべてつぎ込むことであり、信仰のために敢然と戦うことである。
「強く、また雄々しくあれ。そう主はヨシュァに命じたまい、続いてその強さ
と勇気が、主の律法の中に記されているあらゆる事柄を心の中に思いはかり、
かつ従順に実行に移すことにあると説明された。(ヨシュア1 1 6 - 9参照)
義の大義を全うするにあたって大いなかなめる要石となるものは、
完全なる福音の完全なる律法に従順に従うことである。
イエスの証に雄々しくあるには、「キリストの御許に来てキリストによって全く」なり、
「すべて神のみこころに背くことを捨て」、「勢いと心と力とをつく’して神を愛する」
ようにしなければならない。(モロナイ10 :32)
イエスの証に雄々しくあるには、キリストとキリストがもたらされた福音
に対して揺るぎない信仰を持たなければならない。
すなわち地上で行なわれている業が真実神の業であることを知ることである。
しかしこれがすべてではない。イエスの証に雄々しくあることには、
信じることや知ること以上のものがある。
私たちは聞くだけの者ではなく、行なう者とならなければならない。
雄々しいということは口先だけの奉仕とは違う。
救い主が神の御子であることをただ口に出して言うだけでは不十分なのである。
従順、確信、そして自分自身が義しい生活を送ること、これが雄々しいということである。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」
(マタイ7 :21)
イエスの証に雄々しくあるには「これからもキリストを確く信じて疑わず、
完全な希望の光を抱き、神とすべての人とを愛して強く進まなければならない。」
そして「終りまで堪え忍ぶ」のである。(IIニーファイ31:20)
それは私たちの信じる宗教に生きること、すなわち説くことを行ない、戒めを守ることなのである。
そして「困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染ま」らず、
「清く汚れのない信心」を生活の中に具現することである。(ヤコブ1 :27)
イエスの証に雄々しくなるには、情欲を抑え、欲望を制し、世俗的な悪しき物事から
離れていなければならない。
それこそ世に打ち勝つことであり、私たちの手本であり、神の子の中で最も
雄々しい御方がなされたことである。
それは道徳的に清くあることであり、什分の… や他の献金を納めることであり、安息日を尊ぶことであり、
心に目的を抱いて祈ることであり、必要とあらばすべてを犠牲にすることである。
イエスの証に雄々しくなるには、あらゆる点で主の側に立たなければならない。
主が選びたもうように選び、主が考えたもうように考え、主が信じたもうように信じ、
主が語られるように語り、主が行なわれるように行なうのである。
そしてキリストが天父とひとつであるように、私たちもキリストの思いを内に抱いて
ひとつにならなければならない。
(1975年4月聖徒の道182-183)参照

日の栄の王国って遠い気もしますが、毎日信仰をもって福音を実践し、日々の小さな積み重ねを終わりまで続けることにより、誰でも昇栄するという希望を持つことができると思いました(´∀`)
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